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カンボジアに小学校を建設した感想

初めてカンボジアに関わった3年前と比べて、ぼくの人生は確実に豊かになったと思います。

その豊かさというのは「稼げるようになった」とか「欲しいものが何でも買えるようになった」といった経済的、物質的な豊かさではありません。

いろんな人と関わっていろんな世界を見て、自分はどう生きていくのかを見つめ直したことで、人としての在り方の部分が変わったと思います。

カンボジアに小学校を建設した感想

カンボジアの小学校建設中

今回感じたことを言葉にしておきます。

ぼくにとってのカンボジア小学校建設

今回の学校建設は「自分一人じゃ何もできないのに、自分一人でも何かを変えられると思い込んで、自分一人の小さな価値観がさも正しいかのように、自分の思うやり方を押し付けようとしていたことを自覚する旅」のようなものでした。

ぼくが関わるカンボジアの農村部には、日本には当たり前にあるものがありません。

いつでも好きな時に使える使える電気もガスも、捻るだけで安心して飲める水が出る水道も、携帯の電波も、冷たい飲み物がすぐに買える自販機も、いつでもフラッといけるコンビニも、ワンクリックで明日にはほしいものが届くAmazonも、定時にやってきて目的地まで届けてくれる公共の交通機関も何もありません。そして学校もその一つ。

「これがあったらいいのに」「こうしたらもっと良くなるのに」「これがないと…」

ぼくは、ぼくの基準で、そこにない何かを埋めようとしていたし、学校を建てることがそれを埋めていく一歩な気がしていました。

だけど実際には、自分一人ではできなことばかりだったし、それを埋めることが本当にいいのだろうかとたくさん考えるようになりました。

カンボジアで生活をして学んだ大切なこと

カンボジアって聞いてどのようなイメージがわきますか?

「地雷」「内戦」「貧しい」「不衛生」…ぼくは最初、そんな先入観で訪れました。

ぼくが今抱くカンボジア人へのイメージは「人懐っこさ」と「働く人の笑顔」です。

うざいってくらい人の面倒を見たがるし、仕事中の笑顔がとても素敵。

なぜ笑顔にわざわざ「働く人の」と付け加えたかと言うと、働くことをいい意味で重く受け止めていないことが常に笑顔でいることに繋がっていると思ったからです。

あなたは仕事中、笑顔になれていますか?

ヘラヘラしろって意味ではなく、心に余裕を持ててだろうか、必要以上に苦しんだり悩んだりしていないだろうか?と言う意味です。

ぼくはカンボジアでの生活を通じて「仕事も人生の一部であり、それよりも大切なことは家族など大切な人と過ごすこと、ゆっくり味わってご飯を食べること」だと感じました。

仕事を頑張って手に入れたいような、ゆったりとした生活がここにはあった。

それを実現しているカンボジア人たちの生活が、生きている実感をくれた。

仕事よりも優先する物がある。

「ああそうだよな」と思ったし「そう生きたい」と思った。

忘れていた自分の喜び 誰かの夢を叶える手助け

自分一人ではできなかったことが、人の力を借りて達成できたことで、明確になったことがあります。

大切に守りたいヒト・コト・モノ・バショがわかったことです。わかったというか、忘れたり麻痺していたものが、正常になったという方が正しいかもしれません。

もともと自分とは関係なかった人たちが、同じ目線で動いてくれたことで、ぼくも周りの人のことを大切にしたいと思えたし、それができているつもりでできていないことがいくつもあったと気付かされました。

今後は、関わった人たちが「こんなことに困っている」と言い出したら、自分にできる何かを探すだろうし、手伝ってくれた人たちが「こんなことしたい」って言い出したら、その実現のために一緒に必死になって考えると思う。

そう思えるようになったのも、ぼくが関わった人たちがぼくに愛をくれたから。

できることは惜しみなくやりたいって思える人が増えたし、そう考えるようになってますます時間もお金も使い方を意識するようになりました。

やった意味をあえて付け足すとしたら

今回の小学校建設は人生の一部を懸けて、やってみてよかったと本当に思っています。

その先の未来がどんな方向に転がろうと、自分がどう生きていくのかという明確な指標ができたからです。

何か大きなことをやろうとするより、目の前の人たちを大切にしたい。

自分がどう生きていくのかが決まると、ほんの少し豊かになれるのかなと思います。

でもぼくは元が弱いから、そんな大切な人たちすらも当たり前になりすぎたら大切にできなくなる時があります。

  • 親に吐いてきた数々の暴言
  • 素直に聞けなかった恩師の言葉
  • 一番近くの大切な人たちに素直になれないこと

そうやって大切な人や物から順に粗末に扱い、大して大切では無い小さなプライドや意地を頑なに守り、遠くの誰かに見栄を張り、大切な人や物から自ら遠ざかり、気づいたら一人ぼっちになっていて、誰もそばにいてくれない。

挙げ句の果てには、自分には何もない誰も助けてくれないと嘆き出す。

ぼくはもしかしたら、カンボジアと出逢わなければ、そんな寂しい人生になっていたのかもしれません。

そんな人生にならないように、カンボジアに小学校を建てるという活動を通じて、大切にするべきもの、守るべきもの、愛するべきものを再度教えてもらった気がします。

これからもカンボジアと関わり続ける意味

活動を通じて、支援しているように思われている人が、支援されているように見える人たちから、実はたくさん大切なことを学ばせてもらっているのだと感じました。

そして、途中にも書いたように「内戦」とか「地雷」とか、そういう悲しい歴史のイメージはまだしばらく消えないのかもと思ったり。

でも、そんな悲しい時代をも乗り越えてきたカンボジアだからこそ、人への接し方が温かいのかもしれません。

そう考えると、戦後の日本だって苦しく悲しい時代を乗り越えてこそ、今の発展があるのだから、希薄な人間関係と心身を病むほどの労働環境って最近作り出されたというか、もともとあった大切なものが忘れ去られた結果なのかなと思います。

もしかしたら何年後、何十年後にカンボジアも発展を続けたら、日本と同じように寂しい人間関係や苦痛な労働環境が生まれてしまうのかなって感じました。

なんか偉そうでどこか上から目線な言い方になっちゃいますが、ぼくらのような外国人が関わるカンボジア人に伝えられることって、もしかしたらそこなのかもしれません。

発展を続けた日本が手に入れたものと、忘れてしまったもの。

どれだけ時代が変化しても、技術が発展して便利になっても、忘れてはいけない大切なもの。

それを「途上国」と言われてしまう国から消さないことも、「先進国」と呼ばれる国に生きるぼくらの関わり続ける意味なのかなと思います。

先進しているはずが、同じ過ちを繰り返させたら、世界的位は何も進んでいないことになるし。

技術の発展や時代の変化に伴って忘れ去られた大切なものを忘れさえない。

これが、ぼくがこれからもカンボジアと関わる上で大切にしていきたいことな気がします。

カンボジアに小学校を建設した感想の総括

人生は「人に生まれ、人を生かし、人に生かされ、人を生む」と言う言葉を聞いたことがあります。

ぼくは人として生まれ、人に生かされてばかりの人生です。

この先少しでも、人を生かし、人を生む存在になっていきたい。

ぼくのことを生かし続けてくれた皆さんに心から感謝します。

いつも応援してくれている方々、皆さんの大きな愛情と行動で、ぼくの命は救われて、今を生きています。

本当にありがとう。

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